長岡一也の岡目八目 第435回

判官びいきというのは、われわれ日本人特有のものなのだろうか。それは、強い情なくしては考えられない。そして、その情が肩を持つという行為になり、今流の言い方をすれば、強力なサポーターになっていく。だから、判官びいきは、あらゆるスポーツイベントにとり、大きなエネルギーになっているはずと考えられる。
 
その本来の意味は、不幸、不運を背負った不遇な者に同情することだが、ただ不遇というのではなく、実は、かなり実力もある者でないと成り立たないのではないかと思う。
 
人はどこに心を惹かれるか、というよりも自分は何故それを応援するかを突きつめていけば、はっきりする。もちろん、強いからこそ、勝つ続けるからこそ心を奪われるのであり、情が生まれる。そうでないと肩を持とうなどとは考えられないだろう。だから、スポーツイベントが盛り上がるには、ヒーローなりヒロインが登場しなければならない。
 
競馬にも全く同じことが言える。今は、とにかくウオッカだ。ウオッカの人気は、ある時は判官びいきを思わせる。勝っても負けてもウオッカなのだから、そう言っていいだろう。予想のプロがどんなに評価を下げても、サポーターは意に介さずにウオッカを指名する。この秋、敗戦をくり返したことで、判官びいきはエスカレートしたように見えたが、ウオッカの場合は、何といってもダービーの勝利がすべてだった。64年ぶりの牝馬による制覇、この大偉業は凄かった。以後、牡馬に伍して戦い続け、秋の天皇賞で同じ牝馬ダイワスカーレットに大接戦の末に勝ったことで存在は不動になり、GIレースの勝利を積み重ねていくウオッカは、年を重ねる毎に強くもなっていくようで、この間のジャパンCの圧勝劇で頂点に達した。誰が乗っても勝つときは勝つ、パートナーを選ばないその勝利は、誰のものでもない、ウオッカの肩を持つ多くの人のものになっている。


長岡一也の岡目八目 第436回

もう師走、なんとか自他共に笑顔で、幸せな気分になって新しい年を迎えたいと思う。
 
ならば、どうしたらいいか。競馬なら勝つことが第一だが、そんな虫のいい簡単な話ではなく、ちょっと考えてみた。
 
昔見た映画、ポール・ニューマンの「ハスラー」の中で、今でも心に残っているシーンがあった。決め手となる球を突く直前、主人公が台を離れ、洗面所で手を洗ってからプレイに取りかかるのだ。これで勝利をつかむのだが、若い頃だったので、この時のポール・ニューマンを真似て、マージャンの途中、席を立ってよく洗面所で手を洗ったことがあった。それが勝ちにつながったのかどうかは定かではないが、とにかくやってみて、それで気分が一新したのは事実だった。
 
なにか気分のよくなることをやってみる、それが肝心ということで、年の瀬、とりあえずは掃除をしてみるということではないか。
 
年末の掃除、どの家でもやることなのだが、それを率先してやってみる。それなのだ。
 
掃除は、自分の身も心も清浄にするし、自分自身だけでなく、周りの人をも清浄にしてくれる。そして、自他共に清らかになるということは、神仏も喜んでくれるのでそれ自体が供養になるということであり、それによって心がふくよかになって笑顔になるのだ。さらに、それによって幸運がやってくるというのだ。どうだろう、掃除することでこんなにも功徳があるのだから、やらない手はないではないか。
 
自分も他の人をも清浄にするというところがポイントで、これによってみんなが笑顔になることで幸せな心に包まれる、笑顔のあるところには幸運が訪れるから、競馬でもかくありたいとなる。結果はともかくも、幸せな気分にはなれそうだ。みんなが共にということが大切で、そのためにも、身の回りを整えてみてはどうだろう。新年を迎える準備が、大きな功徳を生むを体験してみたいと思う。


長岡一也の岡目八目 第437回

わずか一行の近況報告、そう、年賀状のこと。この年末の大仕事にいつ取りかかるか、なかなか腰が上がらない。受け取る方は、わずか一行でも、その人の今を察しようとするものだ。何度も読み返すときだってある。ならば、同じ書くならあと一行をつけ加えられないものか、そう思えるのが年賀状でもある。それもこれも、今の自分があるのが、多くの人間との出会い、めぐり合わせによるからだ。そうした中には、遠い過去にめぐり合った者もいて、年を重ねた今、年に一度の便りでその縁をつないでいることが多い。
 
めぐり合わせ、仏教でいう「ご縁」、これがあって今の自分があることを思えば、とにかく大切にしていかなければと思う。その絆となるのが言葉であり、文字なのだ。この気持ちを心のこもった言葉、文字に託す意味がどれほど大きいか。だからこそ、あと一行があってもいいと思える。
 
一頭の馬とのめぐり合いだって、考えてみれば大きい。どういういきさつでその馬と出会うことができたのか。レースだったのかそれとも。さらには、何が一番心に残ったのかなど、思いは人によって様々であっても、一度、出会いを感じた馬は、一生忘れることはない。なにかの折、その馬の話に及ぶと、それこそ、堰を切ったように言葉が出てくるものだ。そして、人それぞれに自分だけの縁を感じる馬がいる。さらに言えば、みんながひそかに、それぞれの馬のその後について知りたいと思っているのだ。
 
競馬は、そんな馬を思う人たちによって成り立っており、一頭の馬とのめぐり合いが数多く集まって、成り立っているとも言える。
 
競馬と人との絆は、一頭の馬との絆が広く集まったものであるから、何が大切と言って、基本はあくまでも馬なのだ。どれだけ一頭の馬について言葉を駆使して語り伝えるか、言葉に託したあと一行の精神は、競馬を支える大きな力になっている。心したい。


長岡一也の岡目八目 第438回

競馬を、夢の連続と捉えるとしたらどうだろう。そこには、悲喜こもごもの結末があって、そこに至る様々な迷いが含まれる。しかし、いつまでも引きずらないからいい。だから、いつも心新たに前向きでいられるのだ。
 
言ってみれば、「夢はいっとき、心は新た」ということか。実は、この競馬の日々の有り様、なかなか意味深い。
 
昨日までの夢をいつまでも追いかけていると、今日、明日への迷いが消え去ることはない。こんな迷いは早くぬぐって、今この時に集中しなければならないということだ。新たという心境は、こうして生まれる。
 
うまくしたもので、一年が終わり、年が改まるこの時があるから、わかりやすい。
 
新しい年、心新たにと、みんなが等しく思い、そう誓い合う。競馬だって、まったく同じだ。有馬記念が終わって金杯を迎えてと、いつもと同じサイクルの中にあるのだが、ここを境に心を改めようとしている。しかし、競馬は実は、日々心を改めながら前に進んでいる。
 
昨日の夢は切り落とし、今日に夢を持ち、今日が終われば、それはそれとして次に進んでいく。日々是新たなのだから。
 
この「新」という字、「あたらしい」とも「あらたに」とも読めるし、「あらた」ならば「改」とも書ける。つまり、「あらためる」という意味にも捉えられるから面白い。
 
また、立ち木のつくりに斧をつけて「新」とも言えるから、「新」とは、立っている木を斧で切る姿なのだとも考えられる。そうとなれば、迷いは切り落とすことで新たな心境に到達できるともなる。
 
言い古された心新たにという言葉だが、そんなに簡単なことではない。しっかり心にケジメをつけなければ前に進もうという気にはならない。夢はいつまでも持っていたい。そうでなければ、新たな気持ちという思いにはならないのが人間だが、競馬で培っている習慣こそ、この場合の力になっていると信じる。


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