長岡一也の岡目八目 第487回

人間とはと、昔からいろいろな人が定義づけをしてきた。実に様々と言ってよく、これがなかなか面白い。その中で人の口によくのぼるものと言えば、こんなところか。
 
まず、「人間とは理性を持った動物」と言い、「人間は道具を使う動物」さらには「人間は遊ぶ動物」というのまである。
 
若い頃読んだドストエフスキーの著述の中には、ちょっと考えさせられるものもあった。「人間はいかなることにも馴れる動物である」と述べていたのだ。意味深く、考えさせられる言葉だが、これがドストエフスキーが逆境の中にあったときに述べたものと知れば、少しは分かるような気がする。
 
それにしても馴れるとはどういうことか。色々考えられるが、それは実感を失うことであり、新たなものをもとめる心の動きにつながるという解釈もある。
 
ところで競馬は、「人間とは遊ぶ動物」という定義にかなっている。それによって、どんなに追い込まれても、やがて馴れてくるものでもあると、確かに言える。これはなかなか面白い。逆に、次から次へといいことが重なっても、きっとそれに馴れて、やがては生活という実感をなくすのかもしれない。
 
まあ、いいことが重なるという幸運は、競馬に限ってみれば想定する必要もないのだが。こうした馴れによる閉塞感を打ち破るには、それまでと異なる環境を手に入れなくてはならない。
 
何か新しいことで気分転換させて、別に希望を燃やせばいいのだ。この臨機応変こそ、しっかり生き抜いていく知恵であり、それは競馬にだって言える。そう「人間は知恵のある動物」なのだから。
 
一日の競馬を人生に例えれば、午前中の結果が思わしくなければ、どこかでその流れを吹き切る気分転換をすればよく、レースへの取り組み方にちょっと変化をつけてみてはとなるのだか、どうだろうか。


長岡一也の岡目八目 第488回

奥床しい、つまり、深い心づかいがあって思いやりがある、こういう心ある人ばかりだと、この世は生きやすいのだがと、時折感じたりするのではないか。
 
こういう言葉もある。「よくわきまへたる道には、必ず口重く、問わぬ限りは言はぬこそいみじけれ」と。
 
立派な人は、知っていることだからといってそれほど物知り顔をして言うだろうか。何事も深く立ち入らない様子をしているのがよいのだと、これは論語を勉強していた学生の頃に教えてもらった。そして、ずっと心に残っている。
 
ところが、世の中の荒波にもまれているうちに、そんな控え目では生きてはいけないと思い知らされることが多くなった。
 
そこで、逞しいとはどういうことかと自問する時期が続いてきたように思うのだ。そして、耐えることも逞しさに通じるのだといい聞かせるようになった。
 
その点、競馬の日常には、このような事柄が満ちている。
 
相手の心を知らずに、自分の手柄ばなしに終始して嫌われること、実に多いのではないか。少なからず胸を痛め、ふところを痛めていくのが多い中、たまたまよかったからといって、言いまくられてはたまらない。それに、人に尋ねられたのならともかく、そうではないのにである。
 
競馬の道は、よく心得て歩かないことには、とんでもない泥道になってしまう。楽しい筈が、気まずいことになってしまわないためにも、必ず口を重くし、自分から言い出したりしない態度でいたい。つまりは、これは修行なのである。だから、競馬道という言葉があってもいいのである。
 
競馬に話が弾むのはうれしいが、是非とも奥床しくも楽しいものでありたい。その心づかいこそ、人間道を立派に築くことになるのだから馬鹿にできない。


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